親密さとエロティックな関係
昨日、クリニックにかわいい訪問者があった。小学校に上がる前の女の子。
私のことはお母さんから聴いて知っていたけれど、直接逢うのは初めて。
私たちはまずお互いの目を見た。初めてじっと見つめあって。しばらくして微笑みあうの。これで終わり。もう通じあっている。
それだけ。何もいらない。
お絵描き帳とペンをもって診察室に入ってきた彼女は、私の似顔絵を描き始めた。にこちゃんマークに髪の毛を描いたようなその絵は、私の特徴をとらえていて大ヒット。
私たちはバーバル(言語的)なコミュニケーションがすべてであると思いすぎていないだろうか。言葉が大切なことももちろんあるのだけれど、相手に強要しすぎたり、最も大切な道具として利用しようとしすぎていないだろうか。
心を思いっきりオープンにして、ただ見つめること。それだけで私たちのなかにある親密性の種が芽生えはじめる。しかし「親密さ」は深まれば深まるほど倦怠を生む土壌にもなりうる。言葉だけで理解した気になって、相手のすべてを知ったと思うことが倦怠を生むのだ。
倦怠期のカップルは驚くほど簡潔に相手のことを説明できる。まるでそれがすべてであるかのように。
「彼の頭のなかには仕事と母親の病気とビートルズしかないんです。」
何年も連れ添ったカップルにお勧めしたいのは、一旦自分の頭のなかに創られた相手へのストーリーをわきに置いて、何もなしから見つめてみることだ。相手のなかに自分には見えていないものがあるという可能性にオープンでいること。
セックスレスは問題ではない。セックスの回数も問題ではない。カップルの数だけ関係性のかたちがあるのだから。
だたもし、親密さとエロティックな関係を同時に成り立たせたいのなら、長年かけて自分にも相手にも貼り付けたレッテルをはがして、まったく新鮮な目で見てみることが役に立つ。
エロティックなエッセンスは、「知らないこと」「他人であること」「知りたいこと」「知る余地があること」の距離感から生まれるのだから。
私の元には「もう一度女性として輝きたい」「以前のように情熱的なカップルに戻りたい」という希望が多数集まっている。もちろんそれは可能だ。
カップルが親密であり、なおかつ性的に興奮するパートナーであることは両立できる。これからもっとその秘密を共有していきたい。
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