ひとりひとりがセクシー

男友達がすてきなレストランを予約してくれて、ドレスコードはカジュアルエレガンス。よくよく考えてみたら、ドレスコードはセクシーって聞いたことないな、と思った。

なので、楽しいからその友達に、「ドレスコードはセクシーで」と伝えた。笑っていた。「バブルの極み!」と言っていた。そんな印象なのかしら。バブルのときは世の中はセクシーだったのかしら。今は変わってしまったの?

今度クリニックの飲み会があるのだけれど、「ドレスコードはセクシーで」と言ったら、「えっ。そんな。」と最初は反応する。「どんなふうにすればいいのでしょう?」

ね。そうよね。

ちまたにかわいい・美人はたくさんいるし、イケメンもそれなりにいる。

けれどもセクシーと感じられる人は少ないと思うのは私だけかしら?

私は「美人ですね」と言われるより「セクシーですね」と言われるとうれしいのだけど、私だけ? イケメンにも「セクシーですね」って言ったほうが喜ばれると思うのだけど。もちろんセクシー解放しているイケメンにじゃないと言いませんが。

だって誰だってセクシーなのに。誰かの頭のなかにあるセクシーじゃなく、ひとりひとりのセクシーさがあるのに。

セクシーっていうものは意識すればするほど遠くなる。原始人のときはみんなセクシーだったのじゃないかな。意識しすぎると隠して抑圧するようになったり、逆に「ある特定の固定観念」に当てはめてセクシーを装ってしまう。

今日も「セクシー大解放」な社会を妄想している。「すてきですね」「セクシーですね」それで十分で、目と目で結びつく。特定の男女関係に落とし込もうとするところに苦しみが生まれる。自由に、自由に。解放、開放。

今日も最高のエクスタシーを。

Sex Coach Amara

女も男も最高に満足できる至極のセックスを。 時空も次元も固定観念も超えた愛のすべて。

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