目の前に差し出された手を
人はとかくストーリーをつけたがる。昨日仲良しのお友達とコルシカ島で修行したというシェフのフレンチを食べに浅草へ行った。4年前にふたりで行ったコルシカを懐かしんで。サンテグジュペリが空に溶けていったコルシカ。イモーテル(永久花)が咲き乱れるコルシカ。永遠のイル・ド・ボーテ(美しき島)コルシカ。
細やかな美しいお料理を食べながらシャンパンを飲み、「なんだかコルシカにいるみたいです」とシェフに告げたが、その若き新鋭シェフは「コルシカ料理出してませんけど」とあっさり。ロマンティックが……止まりました。笑。
人はとかくストーリーをつけたがる。体調が悪いことにも理由を欲しがる。もうあなたを愛していない、ということにも。もちろん愛しているということにも。
なので愛にもセックスにもたくさんのエクスキューズが存在する。
愛したことに理由はない。理由は後づけだ。けれど人間の脳はロマンティックなストーリーをいくらでも創作可能だ。その能力はときに口説きの手段となり、小説や詩や絵画にもなる。「なんかモアっとして」よりも「ひとめぼれして」と言うほうが喜ばれる。「君のように美しい女性ははじめてだ」なんてね。
「こんなにモアっとしたのははじめてだ」なんて言えませんよね。笑。
私は変態だから言われるとうれしいけれど。ホルモンの作用を否定はできないものね。
世の中には、なぜか仲良しで、なぜか気にかけて、なぜかいっしょにいる人がいる。理由はない。エクスキューズもない。生が差し出してきたとしかいいようがない。「どうして仲良しなのか」を気にしたって答えはない。
サンテグジュペリが帰ってこなかったのにも、イモーテルが咲き乱れるのにも、私がここにいるのにも、今日が大雨なのにも理由なんかない。そんなことより「今ここ」を楽しもう。
生が差し出してきたものを今日も受け取ろう。目の前に差し出された手を今日も握ろう。
今日もセクシーな一日を。
※このすてきな写真は、私の依頼により天才イラストレーターみぞぐちマキさんが創ってくださったものです。
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