注ぎ注がれて
今日のように雨上がりで、特に台風一過の日は、遠くに見える初冠雪を終えた富士山がぴっかぴかに光っている。空気がどこまでも澄んでいるってこういうこと。最初はこっちが能動的に「見ている」のだけれど、だんだん向こうからエネルギーが注がれていると感じ始める。富士山がこっちを見ているような気がしてくる。
診察室でも患者さんの目を見ていると、エネルギーが注がれてくるのを感じ始める。だんだんどっちが患者さんでどちらが医者なのか分からなくなる。患者さんがいるから医者をやっていられる。「光あるところに影がある」のといっしょなのかも。別々のものではなく一心同体で表裏一体でどちらかが欠けたらもう一方も消滅するのだ。患者さんがいなくなったら精神科医としての私は消滅するのだ。
なので私のなかでは光が影と戦ったり、愛が憎しみと戦ったり、女が男と戦ったりするのがしんどいのではないかと感じ始めている。でも誰かが好きになってその相手と調和していく過程では多かれ少なかれ戦いがあるのかも。相手のなかにある自分との違いが見えてくると何とかしたいと思ってしまうのが人情である。なので世の中の大多数の男女は争っている。違いを楽しめたらいいのだけれど。
向かい合わせに座っていたら横並びに座りたくなる。横並びに座っていたら向かい合わせに座りたくなる。面白いものだ。ごはん食べた後にバーに行くっていうのはそういう意味もあるのかな。いろんな角度から目を合わせたくなる。
男の人の目を見ているときもまた、エネルギーが注がれてくるのを感じ始める。だんだんどっちが相手でどっちが私なのか分からなくなる。これってお酒のせい? 笑。それもあるかも。でももう一度見返すとやっぱり注がれている。これは私がヘンタイだからじゃなくて、きっとみんなが感じることだと思う。
お友達でも家族でも恋人でも、誰かの目をずっと見ていたら「注がれている」のがわかってくる。こちらも注いでいるし相手からも注がれていると気づいたら、とても幸せなエネルギーが循環するのじゃないかしら。どちらがどちらか分からなくなってくればなんだかとてつもなく愛しくなる。セックスのときにも目を閉じてばかりいないで。笑。
今日も破廉恥でワイルドな一日を。
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